2004.11.14

皇紀、年号、そして西暦

「皇紀」表記はいつから一般に使われるようになったか

 ふっとですね、そんな疑問がふつふつとわいてきたのであります。
 ま、ごく基本的な事実はすぐわかります。
 
<広辞苑>
こう・き【皇紀】クワウ‥日本の紀元を、日本書紀に記す神武天皇即位の年(西暦紀元前660年に当る)を元年として1872年(明治5)に定めたもの。

 そう、皇紀年号が制度として明文化されたのは、日本が近代的な太陽暦への転換をなしとげたのと同時だったのです。

 しかも、明治になって制度化されたのちも、皇紀年号って、あまり使われてないのですね、実際は。

 このことをぼくが再認識したのは、たまたま、非常勤で教えている大学の蔵書資料の刊行年次に西暦と皇紀の混同があったのを発見した時。
 はてな? 皇紀2600年(昭和15年、西暦1940年)以後は目立つものの、戦前でも、ここらあたり以前の出版物の奥付には「皇紀」って表記、あまりみかけなかったような記憶があるぞ、ってわけ。
 ある程度客観的な典拠元で最大の書誌データベースと言えば国会図書館でありますが、ここでは、「皇紀」は西暦に変換してデータベース化されていますので、実際に奥付に何と書かれているかは現物にあたらないと確認できない。

国立国会図書館「日本目録規則1987年版 改訂2版」第13章適用細則
 当館では、「日本目録規則1987年版 改訂2版」によって逐次刊行物の書誌データを作成している。この度、その適用細則を定め、平成16年4月から適用することとしたので、以下にその概要を示すとともに、全文を掲載する。
オ)中国・旧満州暦および皇紀の元号表記は,西暦に置き換える。
 大同1年 → 1932年
 康徳1年 → 1934年
 中華民国1年 → 1912年
 皇紀2600年 → 1940年


 そこで、次にネットで、まずは一般的な知識をさがすと、ひとつ、有力なのがヒットしました。

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No.7 ↓皇紀が西暦にとってかわる、です
回答者:nekosima
04-10-31 04:58
種類:アドバイス
どんな人:一般人
自信: あり
参考になった数:0件
回 答
No.6 皇紀について出てますが、皇紀が制定されたのは明治6年。
それが日本人全般に認識されだしたのが紀元二千六百年(昭和15年)です。よく戦前はすべて皇紀と思う人がいますが間違いです。
尾崎翠、種田山頭火は昭和5年時に一九三○年と西暦表記をそのエッセイや日記で使っています。
新聞も同じで昭和7年の日本初のバラバラ殺人では東京朝日は「1932年の怪奇」とこれまた西暦を使っています。
つまりは戦前日本でも少なくとも昭和初期は元号と西暦の併用であった。皇紀が新聞に出てくるのは紀元二千六百年の前年あたり(昭和14年)からで、昭和16年の対米英戦で西暦が皇紀にとってかわるような感じで使われているのが目につきます。
回答者:nekosima
04-10-31 04:46
種類:アドバイス
どんな人:一般人
自信: あり
参考になった数:0件

 ううん、これは、こちらの印象とほぼ同じだが、1940年とか、尾崎翠や種田山頭火の昭和5年=皇紀2590年より前にも使用例はあったような気もする。

 そこで、皇紀制度化とあわせて、さらにネット検索してみました。
 鍵になるのは、「奥付」などをキーワードとした書誌データと、そして、帝国陸海軍の武器兵器の制式名称です。
 ほら、八*式ってのは、戦前にもあったようなおぼろげな記憶はあるけど、七*式ってあったっけ、でしょ?

 まずは、制定についての詳しい資料。


西暦1872年/明治7年/皇紀2532年
歴史と暦
行政歴史研究会
暦の歴史 資料編

改暦の布告 明治5年太政官布告第317号。太陰暦から太陽暦への改暦の布告
紀元を定める布告 明治5年太政官布告第342号。紀元を定める布告である。これにより神武天皇即位年を紀元とする、いわゆる皇紀が定められた

○第三百三十七号(明治五年十一月九日)(太政官布告)今般改暦ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰
出候条此旨相達候事
 (別紙)
   詔書写
朕惟フニ我邦通行ノ暦タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季侯ノ早晩アリ終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ掲ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ属シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス盖シ太陽暦ハ太陽ノ躔度ニ従テ月ヲ立ッ日子多少ノ異アリト雖モ季候早晩ノ変ナク四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰暦ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固り論ヲ挨タサルナリ依テ自今旧暦ヲ廃シ太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ体セヨ
   明治五年壬申十一月九日
    ○
一今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
  但新暦鍍板出来次第頒布候事
一一ケ年三百六十五日十ニケ月ニ分チ四年毎ニ一日ノ閏ヲ置候事
<中略>
  太陽暦 一年三百六十五日 閏年三百六十六日四年毎ニ置之
一月大 三十一日 其一日 即旧暦壬申 十二月三日
二月小 二十八日閏年二十九日 其一日  同  癸酉 正月四日
三月大 三十一日 其一日  同 二月三日
四月小 三十日 其一日  同 三月五日
五月大 三十一日 其一日  同 四月五日
六月小 三十日 其一日  同 五月七日
七月大 三十一日 其一日  同 六月七日
八月大 三十一日 其一日  同 閏六月九日
九月小 三十日 其一日  同 七月十日
十月大 三十一日 其一日  同 八月十日
十一月小 三十日 其一日  同 九月十二日
十二月大 三十一日 其一日  同 十月十二日
 大小毎年替ル ナシ"

○第三百四十二号(明治五年十一月十五日)(太政官布告)
今般太陽暦御頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被為告候為メ来ル廿五日 御祭典被執行候事

 皇紀問題とはずれるけど、ここで重要なのは、西洋式の閏年をもうけたはよいが、4年に一度としか決めてないこと。つまり、旧式のユリウス暦にはしたものの、この時点ではまだグレゴリオ暦にはなっていなかったのだ。

 で、書誌データで検索すると、明治大学の芦田文庫ってやつのデータに奥付についての注記が含まれており、しかし、かなりの数のその中で、明治時代に「皇紀」と表記されていたのは例外的であることがわかりました。

西暦1874年/明治7年/皇紀2534年
年代地域検索結果一覧(画像イメージを持つ資料は18件・高精細画像イメージを持つ資料は2件です。)
52-24 信濃國筑摩縣管轄深志里松本圖面;信濃國松本圖(表紙直書) -- 貮千五百三十四年第五月吉祥日

 こっちはまだ「皇紀」じゃなくて、「神皇紀元」になってます。

西暦1875年/明治8年/皇紀2535年/
7-13 清十八省輿地全圖;津田靜一齋藤 象著清十八省輿地全圖完(元題簽)
津田靜一,齋藤員象著 - 含翠堂蔵版 紀元2535年[明治8年] 銅版(彩色) 1舗 60.6×84.9cm(19.1×11.8cm) 元田永孚識/皇紀元2534年11月
注記・解題: 「京師總圖」「上海總圖」「上海市街圖」「廣州府城圖」「珠江總圖」「厦門總圖」「寧波府總圖」「福州總圖」を付す。帙あり。

 ううむ、片一方は手書きでもう一方は銅板。明治5年の制度化にもかかわらず、近代的な印刷物のほとんどは、やはり和式の年号で表記されています。

 では、帝国陸海軍による制式名称はというと、検索かけたら架空戦記ものがやまほど出てくるわ出てくるわ、七*式、八*式は現行の自衛隊のものまでヒットするわで往生したのですが、そこで、これまた興味深い制式名があり。

西暦1884年/明治17年/皇紀2544年
魚雷一覧
名称 口径(mm) 全長(m) 重量(kg) 主機 装気(kg3) 空気量(l) 燃料(l) 炸薬(kg) 雷速・射程 備考
36糎魚雷
八四式 356 4.566 三気筒 21 22 400 独国朱社
青銅外皮、明治17年200本購入契約
八八式 356 4.620 三気筒 56 24 400 独国朱社
青銅外皮、明治21年307本購入契約
二六式 356 4,57515ft 336 740lb 三気筒 50 110lb 25 548.6 600yd 22 731.5 800yd 英国保社
明治26年100本購入、吉野搭載
三○式B型 356 4.572 337 星型三気筒 90 52 29.9 600 22 800 11.6 2,500 墺国保社
呉で国産化 四翼式推進器 発条式縦舵機


 なんと、ここで言う「八四式」、「八八式」は輸入元のドイツやイギリスにならった西暦年号からとられています。

 そして、1894年、明治31年になってようやく、グレゴリオ暦が最終採用されます。

西暦1894年/明治31年/皇紀2554年
閏年に関する勅令 明治31年勅令第90号。4年に1度閏年、100年に1度は平年、しかし400年に1度は閏年。を定めた勅令

 軍の制式名称に皇紀年号が使われたのは、ぼくが確かめた限りでは、大正も末になってから。

西暦1921年/大正10年/皇紀2581年
駆逐艦啓蒙絶対主義辞典
-艦型編-{【睦月】
日本海軍がイギリスから爆雷兵器一式とその製造権を購入したのは、大正10年(1921年)のことです。
正式採用された八一式爆雷投射機は、「睦月型」と共に、本型の後期計画艦4隻に装備されることになりました。
これが、日本海軍駆逐艦として初の爆雷兵装の装備例になったわけです。

 さらに、こうした命名が一般化されるのは、昭和に入ってからです。

西暦1927年/昭和2年/皇紀2587年
日本の名機 川崎重工業 
八七式重爆撃機(Do.N)
陸軍:昭和2年~7年
初の国産重爆撃機
 陸軍として初めての全金属製大型機であり、国内メーカーには開発経験が無かったため金属機設計に豊富な経験を持つドイツのドルニエ社に対して機体設計を依頼、同社は後に世界一周飛行を達成したDo.J「ワール」飛行艇を元にDo.Nと形式名をつけたパラソル式単葉の機体設計を完成させた。この設計を元に川崎航空機工業で試作機を製作し、約1年にわたるテストの結果昭和2年に八七式重爆撃機として制式採用されたのである。

西暦1928年/昭和3年/皇紀1888年
爆雷一覧
名称 採用年 全長(mm) 缶径(mm) 装備全重量(kg) 炸薬 信管 沈降速度(m/s) 調停深度 発火深度 調整機構 有効危害半径(m) 使用投射機 投射距離(m) 量(kg) 薬種
D型爆雷 大正八年購入 約700 450 70 50 アマトール 3.0 15、30、50、60 20
上記改正型爆雷 大正10年 775 450 229 136 25、45 20
八八式(爆雷改一) 昭和5年 775 450 238 149 三式爆雷信管 3.5 25、45 水圧、発条 20 八一式
九四式 九一式一型(爆雷改二) 昭和9年 775 450 160 100 八八式 三式爆雷信管 2.0 25、50 圧縮面積で調整 33 八一式

 実は、昭和3年の表を信じるなら、爆雷投射機に対する、大正10年の「八一式」なる呼称は、あとづけの可能性大。
 この場合、いちばん古いのは「八七式」の昭和2年ということになります。

 で、すでに引用した「教えて!goo」にある、昭和5年、西暦1930年の、尾崎翠や種田山頭火の使用例が入るわけです。

 書誌データを見ると、やはりこの頃から、民間でも「皇紀万歳」的言説が多くなるのですが。

西暦1931年/昭和6年/皇紀2591年
 ここに掲載した絵葉書は、現在の札幌医科大学附属病院のところに建っていた「武徳殿」の外観及び内部を写したものです。<中略>
「 大日本武徳會北海道支部 皇紀 2591.11.10 武徳殿 落成記念 」
のスタンプがあります。 (右図を参照)
 「皇紀」というのは、日本の建国、つまり天皇制の始まりから年代を数える方法です。そのスタートとなるのが神武天皇の即位 (西暦では紀元前660年) で、「紀元」ともよばれていました。
 スタンプにある「皇紀2591年」は「昭和 6年」にあたりますが、紀元2600 (昭和15) 年には国を挙げての様々なイベントが開催されました。

 あれれ、岩波書店てば、

西暦1932年/昭和7年/皇紀2592年
CL100175 文學 第11号 一年単位の文学史(続) 皇紀2041年 シミ・ヤケ・背痛・A5判   岩波書店 S7 1000 日本文学
 雑誌で皇紀をもととした「歴史見直し」キャンペーン組んでおきながら、書誌データは昭和のままのようですね。

 さらにネットを調べると、

西暦1934年/昭和9年/皇紀2594年
「東京写真専門学校第九期生卒業記念」という父のアルバムがある。
表紙の 2594 という数字は「皇紀」だ。西暦1934年、そこだけその時代を感じさせる

 で、この頃から武器兵器名にも皇紀年号が広く用いられるようになります。

西暦1934年/昭和9年/皇紀2594年
・「泰平組合カタログ」の制作年はいつか?
 宗像和広氏が発掘した原本“Catalogue A”および“Catalogue B”には、制作年・配布年が記されていない。よってこれは、掲載されているアイテム等から推理するしかない。
 カタログA、Bを通じて一番新しいアイテムは、「九四式拳銃」である。
 同拳銃は、中央工業(南部麒次郎が設立した私企業)で試製されたのが昭和8年9月、制式制定されたのは昭和10年9月である。陸軍から開発を指示された段階では「将校用拳銃」としか呼ばれず、昭和9年、つまり皇紀2594年になって、プロジェクト通称として「九四式」の名が定着したと思われるから、この“Catalogue A”の印刷をそれ以前と考えることは無理となる(なお“Catalogue B”の最新アイテムは「九〇式野砲」である。高射砲を牽引している六輪トラックの写真が「九四式自動貨車」かどうかは、確かな同定ができない)。

 ところが、いわゆる「皇国史観」強化のために帝国学士院から刊行が開始されたその本の奥付は……、

西暦1938年/昭和13年/皇紀2598年
日中・太平洋戦争時代年表 1937-39年1938(昭和13 皇紀2598)年
 3月     帝国学士院による「帝室制度史」天皇編刊行が始まる(~45)。奥付は昭和12年3月となっている。


 なんと、昭和のままです。

 また、「支那」派遣軍(のち帝国陸軍は現地住民慰撫のため、「支那」やその略の「支」ではなく「中華」「華」を使用するむね通達をだします)が著者扱いとなった刊行物でも、奥付は「昭和」のままです。
 皇紀2600年の前年なのに、まだまだ実用にはなじんでいないことがわかります。

西暦1939年/昭和14年/皇紀2599年
9 従軍記念 中支軍鉄道局 皇紀2599年 縦31×横23.5cm 箱(壊れ)  中支軍鉄道堂局書記近藤他編 上海 橋岡写真館本店 昭和14 1 3300

 その皇紀2600年には、こんな「歴史見直し」もおこなわれています。

西暦1940年/昭和15年/皇紀2600年
葉隠を読み始めて、はしがきに「皇紀XX年」と書いてあって驚く。奥付をみたら、 初版は昭和15年だそうで、納得。はしがきと内容に関係はないからいいか。

 そして、1941年(昭和16年、皇紀2601年)12月8日、真珠湾攻撃。 だが、皇紀年号をめぐるこうした気分は、さらに1年後もかわらず、南方の現地住民に日本語教育をほどこすという目的の情報局の出版物さえも、

西暦1942年/昭和17年/皇紀2602年
○前田 均 (2000) 「情報局『ニッポンゴ』改訂の実際」『外国語教育---理論と実践---』第26号、pp. 1-10, 天理大学語学教育センター
…手もとにこの『ニッポンゴ』約300語を載せ、対訳・現地式ローマ字発音・絵をつけた小冊子があるが、ここに収録されている語彙と、大久保が紹介し(安田がいんようし)た語彙とにはズレがある。小冊子は全40頁、奥付によると「昭和十七年九月十日印刷 昭和十七年九月一五日発行」で、「編集者 情報局」、「発行者 日本語教育振興会代表者 西尾実」である。平井昌夫はこの小冊子について、
 情報局では、日本の南方進出に即応して、『ニッポンゴ』と称する簡易基本語三〇〇語を選んだものを、日本語教育振興会と協力編修して、昭和十七年タカロク(ママ)、マライ(島嶼、半島)、安南、タイ、ビルマの各語版を発行したが、舌たらずの「アナタホンカウアル」を普及するものとして、不評判であった。
と述べている。

 と、奥付には「昭和」が使われているほどで変わらず、むしろ、開戦後には、皇紀年号への一時の熱もさめたかに思えます。

 てなわけで、皇紀2600年を境にしてとまではゆかないものの、皇紀年号が軍や民間で広く用いられるようになったのは昭和に入ってからくらいのことは言えそうであります。

 ま、そもそも、干支との併用が必要だった昔に比べれば、一世一元になった時点で、元号は、はるかに使いやすいものになり、しかも、皇紀年号は神武天皇を起源とするのに対して、元号は今上天皇への治世をたたえるもののわけで、今どき皇紀年号にこだわるってのは、下手すりゃ不敬にあたるかもしれませんぜ>ウヨの方々。

 じゃあ、おまえは西暦派かって?
 要はどれだけ便利かでしょう。インドだって、イスラム圏だって、独自の年号を持ってるし、使ってるわけで、じゃあ、一元年号としてイスラム圏がそうしたように独自一元年号を使いますか、使うだけの覚悟はありますかってこと。
 そこまでやるんだったら、イスラムに「赤十字」がなくて「赤新月」があるように、キリスト教の象徴である十字架を使ってる日本赤十字なんてつぶしちまえ、って、極論すぎますでしょうか?
 キリスト紀元だから反対ならそれも可だけど、天皇の勅語とともに発表され、明治憲法の規定にもとづく改定により成立した現行憲法と同様、少なくとも現状で、一世一元年号は法的な根拠を持っているわけで、広く使われた期間がたかだか20年くらいの、もうひとつのナショナルな年号を、あえて今さら使わなくたっていいんじゃないでしょうかね。

 あっ、改めて確認するとなると手間かかるのでとりあえずパスしますが、「皇民」「皇国」ってのも、明治以後、使われてはいたものの、国民的なスローガンになったのは、「皇紀年号」とほぼ同じ頃のはずです。

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