皇紀、年号、そして西暦
「皇紀」表記はいつから一般に使われるようになったか?
ふっとですね、そんな疑問がふつふつとわいてきたのであります。
ま、ごく基本的な事実はすぐわかります。
<広辞苑>
こう・き【皇紀】クワウ‥日本の紀元を、日本書紀に記す神武天皇即位の年(西暦紀元前660年に当る)を元年として1872年(明治5)に定めたもの。
そう、皇紀年号が制度として明文化されたのは、日本が近代的な太陽暦への転換をなしとげたのと同時だったのです。
しかも、明治になって制度化されたのちも、皇紀年号って、あまり使われてないのですね、実際は。
このことをぼくが再認識したのは、たまたま、非常勤で教えている大学の蔵書資料の刊行年次に西暦と皇紀の混同があったのを発見した時。
はてな? 皇紀2600年(昭和15年、西暦1940年)以後は目立つものの、戦前でも、ここらあたり以前の出版物の奥付には「皇紀」って表記、あまりみかけなかったような記憶があるぞ、ってわけ。
ある程度客観的な典拠元で最大の書誌データベースと言えば国会図書館でありますが、ここでは、「皇紀」は西暦に変換してデータベース化されていますので、実際に奥付に何と書かれているかは現物にあたらないと確認できない。
国立国会図書館「日本目録規則1987年版 改訂2版」第13章適用細則
当館では、「日本目録規則1987年版 改訂2版」によって逐次刊行物の書誌データを作成している。この度、その適用細則を定め、平成16年4月から適用することとしたので、以下にその概要を示すとともに、全文を掲載する。
オ)中国・旧満州暦および皇紀の元号表記は,西暦に置き換える。
大同1年 → 1932年
康徳1年 → 1934年
中華民国1年 → 1912年
皇紀2600年 → 1940年
そこで、次にネットで、まずは一般的な知識をさがすと、ひとつ、有力なのがヒットしました。
ううん、これは、こちらの印象とほぼ同じだが、1940年とか、尾崎翠や種田山頭火の昭和5年=皇紀2590年より前にも使用例はあったような気もする。
そこで、皇紀制度化とあわせて、さらにネット検索してみました。
鍵になるのは、「奥付」などをキーワードとした書誌データと、そして、帝国陸海軍の武器兵器の制式名称です。
ほら、八*式ってのは、戦前にもあったようなおぼろげな記憶はあるけど、七*式ってあったっけ、でしょ?
まずは、制定についての詳しい資料。
西暦1872年/明治7年/皇紀2532年
歴史と暦
行政歴史研究会
暦の歴史 資料編
改暦の布告 明治5年太政官布告第317号。太陰暦から太陽暦への改暦の布告
紀元を定める布告 明治5年太政官布告第342号。紀元を定める布告である。これにより神武天皇即位年を紀元とする、いわゆる皇紀が定められた
○第三百三十七号(明治五年十一月九日)(太政官布告)今般改暦ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰
出候条此旨相達候事
(別紙)
詔書写
朕惟フニ我邦通行ノ暦タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季侯ノ早晩アリ終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ掲ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ属シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス盖シ太陽暦ハ太陽ノ躔度ニ従テ月ヲ立ッ日子多少ノ異アリト雖モ季候早晩ノ変ナク四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰暦ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固り論ヲ挨タサルナリ依テ自今旧暦ヲ廃シ太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ体セヨ
明治五年壬申十一月九日
○
一今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
但新暦鍍板出来次第頒布候事
一一ケ年三百六十五日十ニケ月ニ分チ四年毎ニ一日ノ閏ヲ置候事
<中略>
太陽暦 一年三百六十五日 閏年三百六十六日四年毎ニ置之
一月大 三十一日 其一日 即旧暦壬申 十二月三日
二月小 二十八日閏年二十九日 其一日 同 癸酉 正月四日
三月大 三十一日 其一日 同 二月三日
四月小 三十日 其一日 同 三月五日
五月大 三十一日 其一日 同 四月五日
六月小 三十日 其一日 同 五月七日
七月大 三十一日 其一日 同 六月七日
八月大 三十一日 其一日 同 閏六月九日
九月小 三十日 其一日 同 七月十日
十月大 三十一日 其一日 同 八月十日
十一月小 三十日 其一日 同 九月十二日
十二月大 三十一日 其一日 同 十月十二日
大小毎年替ル ナシ"
○第三百四十二号(明治五年十一月十五日)(太政官布告)
今般太陽暦御頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被為告候為メ来ル廿五日 御祭典被執行候事
皇紀問題とはずれるけど、ここで重要なのは、西洋式の閏年をもうけたはよいが、4年に一度としか決めてないこと。つまり、旧式のユリウス暦にはしたものの、この時点ではまだグレゴリオ暦にはなっていなかったのだ。
で、書誌データで検索すると、明治大学の芦田文庫ってやつのデータに奥付についての注記が含まれており、しかし、かなりの数のその中で、明治時代に「皇紀」と表記されていたのは例外的であることがわかりました。
西暦1874年/明治7年/皇紀2534年
年代地域検索結果一覧(画像イメージを持つ資料は18件・高精細画像イメージを持つ資料は2件です。)
52-24 信濃國筑摩縣管轄深志里松本圖面;信濃國松本圖(表紙直書) -- 貮千五百三十四年第五月吉祥日
こっちはまだ「皇紀」じゃなくて、「神皇紀元」になってます。
西暦1875年/明治8年/皇紀2535年/
7-13 清十八省輿地全圖;津田靜一齋藤 象著清十八省輿地全圖完(元題簽)
津田靜一,齋藤員象著 - 含翠堂蔵版 紀元2535年[明治8年] 銅版(彩色) 1舗 60.6×84.9cm(19.1×11.8cm) 元田永孚識/皇紀元2534年11月
注記・解題: 「京師總圖」「上海總圖」「上海市街圖」「廣州府城圖」「珠江總圖」「厦門總圖」「寧波府總圖」「福州總圖」を付す。帙あり。
ううむ、片一方は手書きでもう一方は銅板。明治5年の制度化にもかかわらず、近代的な印刷物のほとんどは、やはり和式の年号で表記されています。
では、帝国陸海軍による制式名称はというと、検索かけたら架空戦記ものがやまほど出てくるわ出てくるわ、七*式、八*式は現行の自衛隊のものまでヒットするわで往生したのですが、そこで、これまた興味深い制式名があり。
なんと、ここで言う「八四式」、「八八式」は輸入元のドイツやイギリスにならった西暦年号からとられています。
そして、1894年、明治31年になってようやく、グレゴリオ暦が最終採用されます。
西暦1894年/明治31年/皇紀2554年
閏年に関する勅令 明治31年勅令第90号。4年に1度閏年、100年に1度は平年、しかし400年に1度は閏年。を定めた勅令
軍の制式名称に皇紀年号が使われたのは、ぼくが確かめた限りでは、大正も末になってから。
西暦1921年/大正10年/皇紀2581年
駆逐艦啓蒙絶対主義辞典
-艦型編-{【睦月】
日本海軍がイギリスから爆雷兵器一式とその製造権を購入したのは、大正10年(1921年)のことです。
正式採用された八一式爆雷投射機は、「睦月型」と共に、本型の後期計画艦4隻に装備されることになりました。
これが、日本海軍駆逐艦として初の爆雷兵装の装備例になったわけです。
さらに、こうした命名が一般化されるのは、昭和に入ってからです。
実は、昭和3年の表を信じるなら、爆雷投射機に対する、大正10年の「八一式」なる呼称は、あとづけの可能性大。
この場合、いちばん古いのは「八七式」の昭和2年ということになります。
で、すでに引用した「教えて!goo」にある、昭和5年、西暦1930年の、尾崎翠や種田山頭火の使用例が入るわけです。
書誌データを見ると、やはりこの頃から、民間でも「皇紀万歳」的言説が多くなるのですが。
あれれ、岩波書店てば、
西暦1932年/昭和7年/皇紀2592年
CL100175 文學 第11号 一年単位の文学史(続) 皇紀2041年 シミ・ヤケ・背痛・A5判 岩波書店 S7 1000 日本文学
雑誌で皇紀をもととした「歴史見直し」キャンペーン組んでおきながら、書誌データは昭和のままのようですね。
さらにネットを調べると、
西暦1934年/昭和9年/皇紀2594年
「東京写真専門学校第九期生卒業記念」という父のアルバムがある。
表紙の 2594 という数字は「皇紀」だ。西暦1934年、そこだけその時代を感じさせる
で、この頃から武器兵器名にも皇紀年号が広く用いられるようになります。
ところが、いわゆる「皇国史観」強化のために帝国学士院から刊行が開始されたその本の奥付は……、
西暦1938年/昭和13年/皇紀2598年
日中・太平洋戦争時代年表 1937-39年1938(昭和13 皇紀2598)年
3月 帝国学士院による「帝室制度史」天皇編刊行が始まる(~45)。奥付は昭和12年3月となっている。
なんと、昭和のままです。
また、「支那」派遣軍(のち帝国陸軍は現地住民慰撫のため、「支那」やその略の「支」ではなく「中華」「華」を使用するむね通達をだします)が著者扱いとなった刊行物でも、奥付は「昭和」のままです。
皇紀2600年の前年なのに、まだまだ実用にはなじんでいないことがわかります。
西暦1939年/昭和14年/皇紀2599年
9 従軍記念 中支軍鉄道局 皇紀2599年 縦31×横23.5cm 箱(壊れ) 中支軍鉄道堂局書記近藤他編 上海 橋岡写真館本店 昭和14 1 3300
その皇紀2600年には、こんな「歴史見直し」もおこなわれています。
西暦1940年/昭和15年/皇紀2600年
葉隠を読み始めて、はしがきに「皇紀XX年」と書いてあって驚く。奥付をみたら、 初版は昭和15年だそうで、納得。はしがきと内容に関係はないからいいか。
そして、1941年(昭和16年、皇紀2601年)12月8日、真珠湾攻撃。 だが、皇紀年号をめぐるこうした気分は、さらに1年後もかわらず、南方の現地住民に日本語教育をほどこすという目的の情報局の出版物さえも、
と、奥付には「昭和」が使われているほどで変わらず、むしろ、開戦後には、皇紀年号への一時の熱もさめたかに思えます。
てなわけで、皇紀2600年を境にしてとまではゆかないものの、皇紀年号が軍や民間で広く用いられるようになったのは昭和に入ってからくらいのことは言えそうであります。
ま、そもそも、干支との併用が必要だった昔に比べれば、一世一元になった時点で、元号は、はるかに使いやすいものになり、しかも、皇紀年号は神武天皇を起源とするのに対して、元号は今上天皇への治世をたたえるもののわけで、今どき皇紀年号にこだわるってのは、下手すりゃ不敬にあたるかもしれませんぜ>ウヨの方々。
じゃあ、おまえは西暦派かって?
要はどれだけ便利かでしょう。インドだって、イスラム圏だって、独自の年号を持ってるし、使ってるわけで、じゃあ、一元年号としてイスラム圏がそうしたように独自一元年号を使いますか、使うだけの覚悟はありますかってこと。
そこまでやるんだったら、イスラムに「赤十字」がなくて「赤新月」があるように、キリスト教の象徴である十字架を使ってる日本赤十字なんてつぶしちまえ、って、極論すぎますでしょうか?
キリスト紀元だから反対ならそれも可だけど、天皇の勅語とともに発表され、明治憲法の規定にもとづく改定により成立した現行憲法と同様、少なくとも現状で、一世一元年号は法的な根拠を持っているわけで、広く使われた期間がたかだか20年くらいの、もうひとつのナショナルな年号を、あえて今さら使わなくたっていいんじゃないでしょうかね。
あっ、改めて確認するとなると手間かかるのでとりあえずパスしますが、「皇民」「皇国」ってのも、明治以後、使われてはいたものの、国民的なスローガンになったのは、「皇紀年号」とほぼ同じ頃のはずです。


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