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2004.11.30

チョコエッグはゾッキ食玩だった!

 出版の世界には「ゾッキ本」という言葉がある。
 書籍の著者取り分である印税は、通常は実売ではなく、刷り部数に応じて、一括で支払われる。
 で、これに乗じて、著者に申告するようりも多めに印刷するとどうなるか? その分は出版社がまるもうけということになる。著者向けのゴマカシばかりでなく,、税金の関係で多めに刷ることもある。
 もっとも、多めに印刷しても、現金に結びつかなければ意味がないが、そこはそれ、ゾッキ専門のルートを通じて古本屋に流せば、版元には税務署関係なしのげんなまが転がりこむわけである。
 実はこれ、手形が落とせず青息吐息の会社には非常手段として「有効」だったりするし、中にはゾッキが日常茶飯時になってる出版社もあったりする。
 みなさんご存じの「良心的出版」で知られるあそこもそこもあの会社までゾッキ常習犯だったりするのだ。

 で、食玩の世界じもゾッキってあるんですね。

菓子おまけで違約金1億6000万円命じる
 卵形のチョコレート菓子「チョコエッグ」などにおまけとして付ける精巧な模型をめぐり、「菓子の製造数を過少報告し、模型の独占使用料をごまかした」として、模型製造会社「海洋堂」(大阪市)が「フルタ製菓」(同)に違約金など約1億8000万円を求めた訴訟の判決で、大阪地裁は25日、約1億6000万円の支払いを命じた。

 そもそも、チョコエッグは,フルタ製菓のあととりでもあった企画部部長兼常務取締役の古田豊彦氏の尽力によるもの。その豊彦氏が一族の内紛で追放され、新体制のフルタ製菓から海洋堂に「あいつにゃ仕事まわすな」という居丈高な通告があったのに、海洋堂の若旦那が切れて縁が切れたのが2002年のこと。

 詳しい事情は、
■さらばチョコエッグ(2002 2/4)
-フルタ製菓と海洋堂関係終了のお知らせとおわび

 を読んでいただくとして、

 そうか、収めるべき金もごまかしてたんだ、フルタ製菓。
 よっしゃあ、おめでとさん、海洋堂。

 しかし、豊彦氏は知らなかったのだろうか、このゴマカシ。
 知らされてなかったんだろうなあ、そんな境遇だからこそ追放されたんだろうし。


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2004.11.29

Ζガンダム試写室試写

  11月26日金曜日、『イグルー』がらみでおねだりしたかいがあったのか、ありがたくもプロデューサーじきじきでお電話があり、『Ζガンダム--星を継ぐ者』試写に行く。
 ファンタでも上映したことだし、メディア向け試写も頻繁にやってるのかと思ってたら、築地松竹試写室での試写は、「スタッフ向け内覧」とのこと。
 連絡では、水曜の24日だと調布の東京現像所での試写だっらのだ、そう言えば。
 ああなんてなつかしい。

 それにしてもいまだに現像所試写……。ううむ、まだまだ直しがあるのだろうか?

 いや、必ずしも間違いとはいえないかもしれないとゆうそのわけは、終わって外に出たら、ありゃま、富野さんがなにやら、どなたかと話しこんでるじゃないか。

 関係スタッフへの挨拶かねての来訪かもしれないけど、あのう、音楽担当の三枝成彰さんもいらしてるんですけど、監督……。

 三枝さん、中途で身をのりだしてたけど、好きなのかなあ、アニメとかガンダムって、おいおい、Ζ、ΖΖのTV放映版も逆シャアも、まだ本名の三枝成章名義のころの三枝さんじゃないか。(おお、なかむらたかしさんの『パニパルウィット』も三枝さんの担当か! しかも、本格的な映画音楽担当の最初は、わあい『台風クラブ』だ)

 ダイジェスト化にまつわる諸問題で心配してたの、キャラ芝居の方だったんだけど、意外にもこっちは綺麗に整理されてて、新作の絵とのバランスも、シーンごとの直しが中心なので、さして気になりませんでした。

 これは常々言ってることだけど、放映当時は違和感もあった、カミーユの行動の唐突さも、実は今からふりかえると、青少年をめぐるその後の状況の変化を先取りしていたんですね。
 そもそも、「切れる子ども」なんて発想、まったくなかった時代の作品なのです。

 こんなこと言うと富野さん怒るだろうけど、カミーユのキャラの延長上に、実はエヴァのシンジがいたりするのだ。

 アムロのキャラは同時代的にもきわめてわかりやすい。
 一方、少年のありようとしては、カミーユはあまりにも時代の先を行っていたのであります。

 そう最近の言いかたからすると、「世界、関係ないや」っていう、いわゆる「セカイ系」ですな。

 むしろ、キャラがらみの芝居で気になったのは、放映当時とは逆に、ティーターンズの「邪悪さ」が、余りにもわかりやすかったことの方。ポスト・フセイン、ポスト・対イラク戦争の今、必要なのは、『華氏911』的なわかりやすさではなく、世界の本当の現実と同様に、同時代的にはわかりにくい、「邪悪」と「正義」の不条理なありかたではないだろうか?

 『Ζ』ってのは、ほかの点でも時代の先をいっていて、例えば、ヴァーチャル・リアリティーを応用した全周コクピット。今はHRP2プロメテ(出渕裕デザイン)と合同で研究されている全周コクピットとの違いというと、後者がヘルメット・マウント・ディスプレイを併用していることと、現実のコントロール時姿勢が中腰のニュートラルなものであることくらい。

 そもそも、ヴァーチャル・リアリティーさえほとんどなじみがなかった時代の作品なのだ。もっとも、ヴァーチャル・リアリティーの表示のノウハウも確立されてなかったので、Ζでは、乗ってるMSの体や腕をどう表現するか決められずに、演出でごまかしちゃってるのだけどね。

 というわけで、知られたシリーズの再編集+リメイクという制限の範囲内で評価するなら、ドラマ部門はほぼ満点。第二部、第三部も、今回と同様、シーン単位でリメイクするなら、TV放映とどう変えてくるか期待はきわめて大といったところ。

 で、むしろ、気になったのはメカの方。いや、新作部分も含めて絵の方には文句がないというか、キャラと同様、絵的には文句はない。
 だけど、プラモやオモチャ商売の関係ではしょるわけにはゆかないMSの嵐がちょっちつらい。
 予備知識のない観客は、むしろ、出てきては退場するMSアクションで混乱するのではないだろうか?
 だけども、ΖのMSのラインナップがあいかわらずの人気だからこその劇場版であるわけだし、つらいつらい。

 しかし、そのつらさを措いて、Ζをすでに知ってるひと向けということで観ると、いやあ、富野さんうまいや、編集の手腕といったら絶妙ですね、
 ええと、ここはあそこからでとか、うろおぼえの記憶をさぐりながら観てたら、頭ぐるぐるになってしまいました。

 ファーストの劇場版第二部、ジャブローの戦闘シーンを、ここはあの回のあのカットからの流用で、lここはあそこでと、まだセミプロだった河森正治さんの解説つきで見たのを思い出してしまいました。
 ほんと、血涌き肉躍ります。

 香港編が観たい! かっこいいサイコダンガムをもう一度、体験したい!
 大気圏脱出も、新作カットで観たいよお。

 で、尺考えたらしょうがないけど、大気圏再突入後の流星雨だけは、こちらも新作カットで観たかったなあ。星空を見上げるアムロ、降り注ぐ死の星屑たたち、なんてね。あっ、時差と時刻があわないか。


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2004.11.20

漫画大博物館

 11月12日、松本零士・日高敏編著『漫画大博物館』(小学館クリエイティブ、小学館)の出版記念パーティーが銀座である。体調が悪く寝んでいたのだが、車をとばして顔をだす。 この本、四半世紀以前、1980年に、ブロンズ社から『漫画歴史大博物館』として出版された本を、徹底的に改定増補したもの。

MangaRekishi.jpg
松本零士・日高敏編著『漫画大博物館』、小学館クリエイティブ/小学館、2004

 戦前から戦後、漫画週刊誌時代の、アニメ・ブームの前までを、貸し本漫画や単行本の表紙と本文とを追って、徹底的に絵で見せる画期的な仕事だ。
 知るひとぞ知る。松本さんは、日本でも文字通りトップの漫画本収集家、そのコレクションを、科学ジャーナリストとしても知られる日高敏さんが整理し、まさに博物館の名にふさわしい形で編みなおしたものだ。

 共著者の日高敏さんは、やはり、松本さんのコレクションを基に、小学館から、『幻の小松左京モリ・ミノル漫画全集』をまとめていらっしゃる。

 小松左京が、京都大学の学生時代に、学生運動の資金稼ぎに漫画家を兼業していたのは知るひとぞ知る有名な話。
 当時は、新鋭手塚治虫に対する、強力な新人ライヴァル二人のうちひとりと目されていたのである。
 松本さんが漫画家を志すにあたって、そのきっかけとなったのは実はモリ・ミノルという漫画家で、ほぼ20年近くもくどきおとして、作品集刊行にこぎつけたのである。

MoriMinoru.jpg
小松左京、『幻の漫画家 小松左京モリ・ミノル漫画全集』、小学館、2002
アートディレクター 海野一雄、デザイン 小林美樹代+ベイブリッジ・スタジオ

MoriMinoru2.jpg
モリ・ミノル、未完作品より。

 その思い入れもあってのことか、この本、著者はあくまで小松左京で、松本さん、日高さんのお名前は奥付には、まったく記載されていない。
 しかし、この著作集が出版され、そして、ハードカヴァー4冊函入り本体価格4800円という値段にもかかわらず、きちんとした売上げを記録できたのは、小松左京という作家の底力とともに、お二人の尽力があったからにほかならない。

 実は、ぼくは、この企画が進行中、2001年に幕張メッセで開催された第40回日本SF大会で、日高さんとのおつきあいから、「松本零士・日高敏 モリ・ミノル(小松左京を語る」という企画を担当させていただいた。

 個人的なおつきあいのゆえに出席できたのではあるが、松本さんのコレクションとは、まんざら縁がないわけではないのだ。

 で、そのパーティーがはじまってしばらくたち、お歴々のご挨拶もほぼすんだころ、アナウンスが。

 なんと、今回の本で、これまた松本零士さんのコレクションから使用されている、手塚治虫の『メトロポリス』の、実際には使われていなかった、カラー表紙絵が、手塚プロダクションに返還されるというのだ。
 驚いたのは、その声が伝わるや、業界の長老、達人たちがわらわらと近よってゆき、椅子に座って原画を手にした松本さんのまわりをぐるり取り囲んだこと。
 みな興奮しているのだ。

 そのあたりの様子は、夏目房之助さんのBlog、「夏目房之介の「で?」」の11月13日分、「『漫画大博物館』刊行記念パーティ」の項目で読んでいただこう。

 返還の式次第を、写真で見ていただこう。
 右側は手塚プロの森資料室長、左端に日高敏さんもいらっしゃる。
resize_of_mangarekishisnap1.jpg

 そして、これが幻の表紙原稿だ。
 幸いにも一枚だけ、わがコンパクト・カメラでもピンがあってた写真があったので紹介しておく。

resize_of_mangarekishisnap2.jpg
手塚治虫『メトロポリス』、1959

 夏目さんの表現を借りれば、「手塚さんの線がもっとも魅力を発揮し、色っぽかった時代」の絵である。
 ただし、ぼつにされたのも無理はない。
 いわゆる描き版の時代。職人が原画をなぞって、印刷原版にひきうつすため、線のタッチやカラー絵の美妙なグラデの再現なぞのぞめない時期のことなのである。
 とてもこれだけの絵の魅力を伝えられるはずがなかっただろう。
 で、その夏目さんのBlogの、その「『漫画大博物館』刊行記念パーティ」へのコメント・ツリーで興味深いわだいが展開されている。
 つまり、スクリーン・トーンはいつから使われるようになったのかという問題だ。
 このツリー、発言者がすごい。
 長谷邦夫さんとか、すがやみつるさん、とり・みきさんなど現場を知り、近い時代を知るひとの間でああだこうだというわけで、じつはぼくもひとつ書き込みさせていただいたのだが、その派生で、さらなる疑問が浮かんできた。
 それはつまり、
 写植はいつから漫画に使われるようになったか?
 という問題だ。
 実は、この問題、手元の資料だけではわからないので、今日、参考資料のとりよせを手配した。明日には宅配で届くその資料とは、
 『文字に生きる--写研五十年の歩み』(株式会社写研、1975)。
 また、スクリーントーンの普及過程についても、レトラセット社の社史を所蔵している閲覧可能な機関の所在を確認できた。
 ということで、その結果は明日ならびに10日か2週間以内に。

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2004.11.19

"Ms igLoo"物欲番長

 で、「Ms igLoo」なのだが、去る11月8日にスタッフ上映会が開かれた。
 一般公開よりもおくれてというのもナニな話だが、できあがりが公開の前日といったあだしごとはさておき、デジタルなもんで、全員が見られる場所って公開館しかなのね、これが。

 話の中身については、ま、ネタバレ禁止はとりあえず第2話だけなんで、別にいいんだが、またの機会ということで。

 いやさ、爆発してしまいました、封印してた物欲番長が。

 買った、買った。

 だって、上映おわって、上のカフェでのパーティーに、みんなエレヴェーターで上がるんだけど、これが売店のまんなかとおってゆくんだよね。

 わらわらわらわら、なんだかうすぼけたファッションの集団が群らがって、みんな必死で買いまくってるのだ、ガンダム・グッズを、イグルー・グッズを。

 で、その翌日に、また来てしまったのです、このわたしは。

 まずは、イグルー・キャンディー。中身は食玩の中のお菓子なみで、外箱だけってのは詐欺だって言うヒトは野暮。そう、第2話の関連グッズです。
IglooCandy.jpg

 次はヨーツンヘイム・タオル。ハンド・タオルです。
IglooTowel.jpg

 さらに、実はいちばんのお気に入りのイグルー・バンダナ。
 ガンダムがらみではすでに、ジオン・バンダナは存在していのだが、なんか厚手の生地で湿気をすってくれなくて、その上、頭にまくと、文様がよくわかんないという、バンダナという品物の意味わかってんのかしらんというデキ。
 その点、これなら街中でも違和感ありません。
IglooBandana.jpg

 ほんでもって、イグルーTシャツ。背中にこおゆう文様がついてます。胸にはジオン鉄十字章です。
 感動です。今西監督、那智おたくが爆発してます。まあにいです、マニアです。
 わたしは黒白2枚買いました。
IglooTshirt.jpg

 で、売店の片隅にはあやしげなコーナーがあって、Tシャツなどにワン・ポイント刺繍をしてくれます。ファースト、Ζ、種などいろいろあって、もちろん、イグルーも入ってます。

 これは鉄十字章。
IglooShishuCross.jpg

 これは戦傷者章。
IglooShishuShoigunjin.jpg

 わたしは結局、このTシャツ、色違いで4着買ってしまいました。

 あっ、基本的には、窓口で買うTシャツに刺繍を一点入れていくらという、まあなんてお買い得なシステム。
 しかし、さすがバンダイ。
 ポイントがつきまして、たまると、持込みのものどれにも好きな刺繍を一箇所ただでしてあげるというのです。
 わたしはすでに2回ぶんクリア。あと1回たのめば、持ち込み3点にOK!

 また来ることはほとんど義務になってしまいました。

 ほんでもって、これは……、冷静になって考えると、軍手にペンキぬっただけか?
 んなこといったら、ガレキは虫歯のつめものじゃないか。
GundamGlove.jpg

 そして、ほおおら、こんなに、イグルーならびにガンダム・グッズが。
IglooIroIro.jpg


 ほかにもいろいろ買いあさったんで、ギャラのかなりの部分が飛んでいってしまいました。

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世界最初のパワード・スーツ・コンテスト

resize_of_logo.gif

 去る10月21日から23日、アメリカ、カリフォルニア州サンタクララで、米国では初の本格的ロボット・イヴェント「ロボネクサス」が開催された。日本からも、かの出渕裕さんデザインのHRP-2などが展示されたが、ごく一部の好き者にとって注目なのはやはり、雑誌「SERVO」主宰の、第一回手作りパワード・スーツ・コンテスト「Tetsujin 2004」であった。
 着るロボットを使って、重量挙げを競うというのが、このコンテストの眼目。賞金は2万5千ドル。ううん、高いのか、安いのか? よくわからん。
 単に挙げた重量だけではなく、システム重量や、挙げる速度などを勘案して、採点がおこなわれる。
 告知がおこなわれたのは2月。エントリー期限は6月14日。つまり、もっとも早く手をつけたチームでも製作期間は半年ちょっとしかなかったにもかかわらず、5組のチーム(選手+オペレーター、それに支援クルー)が参加。
 結局、以下の成績が確定された。

Tetsujin 2004
 第1位 チーム「Xela」(読みはたぶん「ジーラ」)
     重量  113.6 kg
     高さ  87.63 cm
     時間   0.46 秒
     獲得点 147.906ポイント
 第2位 チーム「ラプター」
     重量  295.5 kg
     高さ 10.16 cm
     時間   0.2 秒
     獲得点  68.082ポイント
 第3位 チーム「テクノトラウザー」(メカパンツ)
     重量  295.5 kg
     高さ   34.29 cm
     時間   1.9 sec
     獲得点  33.517ポイント

 詳細は続報とのことであるが、やけに書きかたがあっさりしているのは、本誌のほうで詳しく特集するためだろう。

 ネットでチェックすると、画像とあわせて紹介しているとこは、たった三つしかみつからなかった。
 というか、いつ出るか出るかと待ってるうちに、もう3週間以上もたってしまったのだ。

 まずは、

White Wolf Forums 
Robot_builderさんより、5点の写真がアップされている。
 このひと、別ハンドルでほかの掲示板にも上げてるが、そっちは接続が不安定。
 素人写真ではあるが、アップの日づけはいちばんはやい。
 あっ、言っとくけど、めいっぱい思いからね。
1 Jaschas entry (ジャスカ・リトルと「メカニクス」。入賞せず)
2 Team Raptors entry (「ラプター」。2位)
3 Tecno Trousers mid fall, donald to the rescue (「テクノトラウザー」コケル。3位)
4 TT doing what it was supposed to do. (「テクノトラウザー」)
5 Never got the name of this one...

 次に、IT関係のウェブ誌から。うちひとつは日本からの取材というのが偉いが、ワン・オヴ・ゼムという立場が冷たい。
 ま、「PC WEB」じゃしょうがないか。
 できるなら、ガンダム戦士、あいやIT戦士の虎の穴、「ITmedia」に取材してほしかったけど。

MYCOM PC WEB
【レポート】
爆発的な普及の前兆か!? 活況だった米国初のロボティクス・エキスポ
(1)ROBOlympicsとFIRST、Tetsujin 2004による競技大会
Yoichi Yamashita

エイリアン2の最後を思い出すTetsujinのヘビー級マシン。これに人間が入る
(ジャスカ・リトルと「メカニクス」)

華奢なマシンで、重いバーベルを持ち上げるとより高得点
(「テクノトラウザー」)

写真で持ち上げている重量は690ポンド
(「テクノトラウザー」)

 つづいては、

PC MAGAZINE
FIRST Makes Technology and Students the Stars
10.22.04
By Lance Ulanoff

 から5点。
Heavy Lifting
(ジャスカ・リトルと「メカニクス」)

Wear It
(ジャスカ・リトルと「メカニクス」)

Mechanicus's Brain
(「メカニクス」内蔵チップ)

Lifting Team 2
(ブライアン・フッドと彼の乗るロボット。厨房じゃなくて本当の中坊。クラスメートのベン・ウー、エイドナン・ジェイヴズとともに構想数箇月、製作3週間で作り上げた)

Lifting Team 3
(「テクノトラウザー」か?)

 というわけで、世界ではじめてのパワード・スーツ・コンテストは閉幕。
 誰かが始めれば、ぞろぞろ出てくるのが、この手の話のならい、ということで、来年あたりはもっととんでもないことになってるんだろうな。

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2004.11.14

スペースシップワンのコクピット図解

 初の民間有人宇宙船「スペースシップワン」のコクピット図解がみつかった。
 スパースシップワン秘蔵写真
で紹介したように、第一弾ロケットの代わりをする空中母艦「ホワイトナイト」については、コクピットの近接写真があり、また、図解の存在も確認していたのだが、見すごしていた、スペースシップワンそのものの図解がみつかった。

 まずは、ホワイトナイトのコクピット図解から。
スパースシップワン秘蔵写真」中の、ホワイトナイト、コクピットのスナップと比べてほしい。右上にN318SLというシリアル・ナンバーが見える。 
WhighteKnightCockpitX.jpg
Vigilance Aeronautical, Inc.

 つづいて、スペースシップワンのコクピット。
SpaceshipOneCodkpitX.jpg
Vigilance Aeronautical, Inc.

 いずれも、ヴィジランス社の広報用イラストレーションだ。


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皇紀、年号、そして西暦

「皇紀」表記はいつから一般に使われるようになったか

 ふっとですね、そんな疑問がふつふつとわいてきたのであります。
 ま、ごく基本的な事実はすぐわかります。
 
<広辞苑>
こう・き【皇紀】クワウ‥日本の紀元を、日本書紀に記す神武天皇即位の年(西暦紀元前660年に当る)を元年として1872年(明治5)に定めたもの。

 そう、皇紀年号が制度として明文化されたのは、日本が近代的な太陽暦への転換をなしとげたのと同時だったのです。

 しかも、明治になって制度化されたのちも、皇紀年号って、あまり使われてないのですね、実際は。

 このことをぼくが再認識したのは、たまたま、非常勤で教えている大学の蔵書資料の刊行年次に西暦と皇紀の混同があったのを発見した時。
 はてな? 皇紀2600年(昭和15年、西暦1940年)以後は目立つものの、戦前でも、ここらあたり以前の出版物の奥付には「皇紀」って表記、あまりみかけなかったような記憶があるぞ、ってわけ。
 ある程度客観的な典拠元で最大の書誌データベースと言えば国会図書館でありますが、ここでは、「皇紀」は西暦に変換してデータベース化されていますので、実際に奥付に何と書かれているかは現物にあたらないと確認できない。

国立国会図書館「日本目録規則1987年版 改訂2版」第13章適用細則
 当館では、「日本目録規則1987年版 改訂2版」によって逐次刊行物の書誌データを作成している。この度、その適用細則を定め、平成16年4月から適用することとしたので、以下にその概要を示すとともに、全文を掲載する。
オ)中国・旧満州暦および皇紀の元号表記は,西暦に置き換える。
 大同1年 → 1932年
 康徳1年 → 1934年
 中華民国1年 → 1912年
 皇紀2600年 → 1940年


 そこで、次にネットで、まずは一般的な知識をさがすと、ひとつ、有力なのがヒットしました。

教えてgoo!
みんなの疑問、みんなで解決!

No.7 ↓皇紀が西暦にとってかわる、です
回答者:nekosima
04-10-31 04:58
種類:アドバイス
どんな人:一般人
自信: あり
参考になった数:0件
回 答
No.6 皇紀について出てますが、皇紀が制定されたのは明治6年。
それが日本人全般に認識されだしたのが紀元二千六百年(昭和15年)です。よく戦前はすべて皇紀と思う人がいますが間違いです。
尾崎翠、種田山頭火は昭和5年時に一九三○年と西暦表記をそのエッセイや日記で使っています。
新聞も同じで昭和7年の日本初のバラバラ殺人では東京朝日は「1932年の怪奇」とこれまた西暦を使っています。
つまりは戦前日本でも少なくとも昭和初期は元号と西暦の併用であった。皇紀が新聞に出てくるのは紀元二千六百年の前年あたり(昭和14年)からで、昭和16年の対米英戦で西暦が皇紀にとってかわるような感じで使われているのが目につきます。
回答者:nekosima
04-10-31 04:46
種類:アドバイス
どんな人:一般人
自信: あり
参考になった数:0件

 ううん、これは、こちらの印象とほぼ同じだが、1940年とか、尾崎翠や種田山頭火の昭和5年=皇紀2590年より前にも使用例はあったような気もする。

 そこで、皇紀制度化とあわせて、さらにネット検索してみました。
 鍵になるのは、「奥付」などをキーワードとした書誌データと、そして、帝国陸海軍の武器兵器の制式名称です。
 ほら、八*式ってのは、戦前にもあったようなおぼろげな記憶はあるけど、七*式ってあったっけ、でしょ?

 まずは、制定についての詳しい資料。


西暦1872年/明治7年/皇紀2532年
歴史と暦
行政歴史研究会
暦の歴史 資料編

改暦の布告 明治5年太政官布告第317号。太陰暦から太陽暦への改暦の布告
紀元を定める布告 明治5年太政官布告第342号。紀元を定める布告である。これにより神武天皇即位年を紀元とする、いわゆる皇紀が定められた

○第三百三十七号(明治五年十一月九日)(太政官布告)今般改暦ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰
出候条此旨相達候事
 (別紙)
   詔書写
朕惟フニ我邦通行ノ暦タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季侯ノ早晩アリ終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ掲ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ属シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス盖シ太陽暦ハ太陽ノ躔度ニ従テ月ヲ立ッ日子多少ノ異アリト雖モ季候早晩ノ変ナク四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰暦ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固り論ヲ挨タサルナリ依テ自今旧暦ヲ廃シ太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ体セヨ
   明治五年壬申十一月九日
    ○
一今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
  但新暦鍍板出来次第頒布候事
一一ケ年三百六十五日十ニケ月ニ分チ四年毎ニ一日ノ閏ヲ置候事
<中略>
  太陽暦 一年三百六十五日 閏年三百六十六日四年毎ニ置之
一月大 三十一日 其一日 即旧暦壬申 十二月三日
二月小 二十八日閏年二十九日 其一日  同  癸酉 正月四日
三月大 三十一日 其一日  同 二月三日
四月小 三十日 其一日  同 三月五日
五月大 三十一日 其一日  同 四月五日
六月小 三十日 其一日  同 五月七日
七月大 三十一日 其一日  同 六月七日
八月大 三十一日 其一日  同 閏六月九日
九月小 三十日 其一日  同 七月十日
十月大 三十一日 其一日  同 八月十日
十一月小 三十日 其一日  同 九月十二日
十二月大 三十一日 其一日  同 十月十二日
 大小毎年替ル ナシ"

○第三百四十二号(明治五年十一月十五日)(太政官布告)
今般太陽暦御頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被為告候為メ来ル廿五日 御祭典被執行候事

 皇紀問題とはずれるけど、ここで重要なのは、西洋式の閏年をもうけたはよいが、4年に一度としか決めてないこと。つまり、旧式のユリウス暦にはしたものの、この時点ではまだグレゴリオ暦にはなっていなかったのだ。

 で、書誌データで検索すると、明治大学の芦田文庫ってやつのデータに奥付についての注記が含まれており、しかし、かなりの数のその中で、明治時代に「皇紀」と表記されていたのは例外的であることがわかりました。

西暦1874年/明治7年/皇紀2534年
年代地域検索結果一覧(画像イメージを持つ資料は18件・高精細画像イメージを持つ資料は2件です。)
52-24 信濃國筑摩縣管轄深志里松本圖面;信濃國松本圖(表紙直書) -- 貮千五百三十四年第五月吉祥日

 こっちはまだ「皇紀」じゃなくて、「神皇紀元」になってます。

西暦1875年/明治8年/皇紀2535年/
7-13 清十八省輿地全圖;津田靜一齋藤 象著清十八省輿地全圖完(元題簽)
津田靜一,齋藤員象著 - 含翠堂蔵版 紀元2535年[明治8年] 銅版(彩色) 1舗 60.6×84.9cm(19.1×11.8cm) 元田永孚識/皇紀元2534年11月
注記・解題: 「京師總圖」「上海總圖」「上海市街圖」「廣州府城圖」「珠江總圖」「厦門總圖」「寧波府總圖」「福州總圖」を付す。帙あり。

 ううむ、片一方は手書きでもう一方は銅板。明治5年の制度化にもかかわらず、近代的な印刷物のほとんどは、やはり和式の年号で表記されています。

 では、帝国陸海軍による制式名称はというと、検索かけたら架空戦記ものがやまほど出てくるわ出てくるわ、七*式、八*式は現行の自衛隊のものまでヒットするわで往生したのですが、そこで、これまた興味深い制式名があり。

西暦1884年/明治17年/皇紀2544年
魚雷一覧
名称 口径(mm) 全長(m) 重量(kg) 主機 装気(kg3) 空気量(l) 燃料(l) 炸薬(kg) 雷速・射程 備考
36糎魚雷
八四式 356 4.566 三気筒 21 22 400 独国朱社
青銅外皮、明治17年200本購入契約
八八式 356 4.620 三気筒 56 24 400 独国朱社
青銅外皮、明治21年307本購入契約
二六式 356 4,57515ft 336 740lb 三気筒 50 110lb 25 548.6 600yd 22 731.5 800yd 英国保社
明治26年100本購入、吉野搭載
三○式B型 356 4.572 337 星型三気筒 90 52 29.9 600 22 800 11.6 2,500 墺国保社
呉で国産化 四翼式推進器 発条式縦舵機


 なんと、ここで言う「八四式」、「八八式」は輸入元のドイツやイギリスにならった西暦年号からとられています。

 そして、1894年、明治31年になってようやく、グレゴリオ暦が最終採用されます。

西暦1894年/明治31年/皇紀2554年
閏年に関する勅令 明治31年勅令第90号。4年に1度閏年、100年に1度は平年、しかし400年に1度は閏年。を定めた勅令

 軍の制式名称に皇紀年号が使われたのは、ぼくが確かめた限りでは、大正も末になってから。

西暦1921年/大正10年/皇紀2581年
駆逐艦啓蒙絶対主義辞典
-艦型編-{【睦月】
日本海軍がイギリスから爆雷兵器一式とその製造権を購入したのは、大正10年(1921年)のことです。
正式採用された八一式爆雷投射機は、「睦月型」と共に、本型の後期計画艦4隻に装備されることになりました。
これが、日本海軍駆逐艦として初の爆雷兵装の装備例になったわけです。

 さらに、こうした命名が一般化されるのは、昭和に入ってからです。

西暦1927年/昭和2年/皇紀2587年
日本の名機 川崎重工業 
八七式重爆撃機(Do.N)
陸軍:昭和2年~7年
初の国産重爆撃機
 陸軍として初めての全金属製大型機であり、国内メーカーには開発経験が無かったため金属機設計に豊富な経験を持つドイツのドルニエ社に対して機体設計を依頼、同社は後に世界一周飛行を達成したDo.J「ワール」飛行艇を元にDo.Nと形式名をつけたパラソル式単葉の機体設計を完成させた。この設計を元に川崎航空機工業で試作機を製作し、約1年にわたるテストの結果昭和2年に八七式重爆撃機として制式採用されたのである。

西暦1928年/昭和3年/皇紀1888年
爆雷一覧
名称 採用年 全長(mm) 缶径(mm) 装備全重量(kg) 炸薬 信管 沈降速度(m/s) 調停深度 発火深度 調整機構 有効危害半径(m) 使用投射機 投射距離(m) 量(kg) 薬種
D型爆雷 大正八年購入 約700 450 70 50 アマトール 3.0 15、30、50、60 20
上記改正型爆雷 大正10年 775 450 229 136 25、45 20
八八式(爆雷改一) 昭和5年 775 450 238 149 三式爆雷信管 3.5 25、45 水圧、発条 20 八一式
九四式 九一式一型(爆雷改二) 昭和9年 775 450 160 100 八八式 三式爆雷信管 2.0 25、50 圧縮面積で調整 33 八一式

 実は、昭和3年の表を信じるなら、爆雷投射機に対する、大正10年の「八一式」なる呼称は、あとづけの可能性大。
 この場合、いちばん古いのは「八七式」の昭和2年ということになります。

 で、すでに引用した「教えて!goo」にある、昭和5年、西暦1930年の、尾崎翠や種田山頭火の使用例が入るわけです。

 書誌データを見ると、やはりこの頃から、民間でも「皇紀万歳」的言説が多くなるのですが。

西暦1931年/昭和6年/皇紀2591年
 ここに掲載した絵葉書は、現在の札幌医科大学附属病院のところに建っていた「武徳殿」の外観及び内部を写したものです。<中略>
「 大日本武徳會北海道支部 皇紀 2591.11.10 武徳殿 落成記念 」
のスタンプがあります。 (右図を参照)
 「皇紀」というのは、日本の建国、つまり天皇制の始まりから年代を数える方法です。そのスタートとなるのが神武天皇の即位 (西暦では紀元前660年) で、「紀元」ともよばれていました。
 スタンプにある「皇紀2591年」は「昭和 6年」にあたりますが、紀元2600 (昭和15) 年には国を挙げての様々なイベントが開催されました。

 あれれ、岩波書店てば、

西暦1932年/昭和7年/皇紀2592年
CL100175 文學 第11号 一年単位の文学史(続) 皇紀2041年 シミ・ヤケ・背痛・A5判   岩波書店 S7 1000 日本文学
 雑誌で皇紀をもととした「歴史見直し」キャンペーン組んでおきながら、書誌データは昭和のままのようですね。

 さらにネットを調べると、

西暦1934年/昭和9年/皇紀2594年
「東京写真専門学校第九期生卒業記念」という父のアルバムがある。
表紙の 2594 という数字は「皇紀」だ。西暦1934年、そこだけその時代を感じさせる

 で、この頃から武器兵器名にも皇紀年号が広く用いられるようになります。

西暦1934年/昭和9年/皇紀2594年
・「泰平組合カタログ」の制作年はいつか?
 宗像和広氏が発掘した原本“Catalogue A”および“Catalogue B”には、制作年・配布年が記されていない。よってこれは、掲載されているアイテム等から推理するしかない。
 カタログA、Bを通じて一番新しいアイテムは、「九四式拳銃」である。
 同拳銃は、中央工業(南部麒次郎が設立した私企業)で試製されたのが昭和8年9月、制式制定されたのは昭和10年9月である。陸軍から開発を指示された段階では「将校用拳銃」としか呼ばれず、昭和9年、つまり皇紀2594年になって、プロジェクト通称として「九四式」の名が定着したと思われるから、この“Catalogue A”の印刷をそれ以前と考えることは無理となる(なお“Catalogue B”の最新アイテムは「九〇式野砲」である。高射砲を牽引している六輪トラックの写真が「九四式自動貨車」かどうかは、確かな同定ができない)。

 ところが、いわゆる「皇国史観」強化のために帝国学士院から刊行が開始されたその本の奥付は……、

西暦1938年/昭和13年/皇紀2598年
日中・太平洋戦争時代年表 1937-39年1938(昭和13 皇紀2598)年
 3月     帝国学士院による「帝室制度史」天皇編刊行が始まる(~45)。奥付は昭和12年3月となっている。


 なんと、昭和のままです。

 また、「支那」派遣軍(のち帝国陸軍は現地住民慰撫のため、「支那」やその略の「支」ではなく「中華」「華」を使用するむね通達をだします)が著者扱いとなった刊行物でも、奥付は「昭和」のままです。
 皇紀2600年の前年なのに、まだまだ実用にはなじんでいないことがわかります。

西暦1939年/昭和14年/皇紀2599年
9 従軍記念 中支軍鉄道局 皇紀2599年 縦31×横23.5cm 箱(壊れ)  中支軍鉄道堂局書記近藤他編 上海 橋岡写真館本店 昭和14 1 3300

 その皇紀2600年には、こんな「歴史見直し」もおこなわれています。

西暦1940年/昭和15年/皇紀2600年
葉隠を読み始めて、はしがきに「皇紀XX年」と書いてあって驚く。奥付をみたら、 初版は昭和15年だそうで、納得。はしがきと内容に関係はないからいいか。

 そして、1941年(昭和16年、皇紀2601年)12月8日、真珠湾攻撃。 だが、皇紀年号をめぐるこうした気分は、さらに1年後もかわらず、南方の現地住民に日本語教育をほどこすという目的の情報局の出版物さえも、

西暦1942年/昭和17年/皇紀2602年
○前田 均 (2000) 「情報局『ニッポンゴ』改訂の実際」『外国語教育---理論と実践---』第26号、pp. 1-10, 天理大学語学教育センター
…手もとにこの『ニッポンゴ』約300語を載せ、対訳・現地式ローマ字発音・絵をつけた小冊子があるが、ここに収録されている語彙と、大久保が紹介し(安田がいんようし)た語彙とにはズレがある。小冊子は全40頁、奥付によると「昭和十七年九月十日印刷 昭和十七年九月一五日発行」で、「編集者 情報局」、「発行者 日本語教育振興会代表者 西尾実」である。平井昌夫はこの小冊子について、
 情報局では、日本の南方進出に即応して、『ニッポンゴ』と称する簡易基本語三〇〇語を選んだものを、日本語教育振興会と協力編修して、昭和十七年タカロク(ママ)、マライ(島嶼、半島)、安南、タイ、ビルマの各語版を発行したが、舌たらずの「アナタホンカウアル」を普及するものとして、不評判であった。
と述べている。

 と、奥付には「昭和」が使われているほどで変わらず、むしろ、開戦後には、皇紀年号への一時の熱もさめたかに思えます。

 てなわけで、皇紀2600年を境にしてとまではゆかないものの、皇紀年号が軍や民間で広く用いられるようになったのは昭和に入ってからくらいのことは言えそうであります。

 ま、そもそも、干支との併用が必要だった昔に比べれば、一世一元になった時点で、元号は、はるかに使いやすいものになり、しかも、皇紀年号は神武天皇を起源とするのに対して、元号は今上天皇への治世をたたえるもののわけで、今どき皇紀年号にこだわるってのは、下手すりゃ不敬にあたるかもしれませんぜ>ウヨの方々。

 じゃあ、おまえは西暦派かって?
 要はどれだけ便利かでしょう。インドだって、イスラム圏だって、独自の年号を持ってるし、使ってるわけで、じゃあ、一元年号としてイスラム圏がそうしたように独自一元年号を使いますか、使うだけの覚悟はありますかってこと。
 そこまでやるんだったら、イスラムに「赤十字」がなくて「赤新月」があるように、キリスト教の象徴である十字架を使ってる日本赤十字なんてつぶしちまえ、って、極論すぎますでしょうか?
 キリスト紀元だから反対ならそれも可だけど、天皇の勅語とともに発表され、明治憲法の規定にもとづく改定により成立した現行憲法と同様、少なくとも現状で、一世一元年号は法的な根拠を持っているわけで、広く使われた期間がたかだか20年くらいの、もうひとつのナショナルな年号を、あえて今さら使わなくたっていいんじゃないでしょうかね。

 あっ、改めて確認するとなると手間かかるのでとりあえずパスしますが、「皇民」「皇国」ってのも、明治以後、使われてはいたものの、国民的なスローガンになったのは、「皇紀年号」とほぼ同じ頃のはずです。

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2004.11.13

11月17日はシャアの誕生日!?

ん? 11月17日はシャアの誕生日!?

 例によって、ガンダム関係の、というか『Ms igLoo』(ああくそ、表記がややこしい。ちゃんとCSS勉強すればドイツの花文字で表示できるのだが)を検索してると、最新情報が必ずヒットするのは「神北情報局」か川口克巳プロデューサーの個人ページ「川口克己の趣味的ポピーワークス」か、それとも「むいむい星人の寝言」 ばっかし。
 ちぃっ、なあんか、とんでもない大昔からなじみのヒトだらけ、いや、だけじゃないか。
 ああ、今はなきNiftyServeよ……って、サンライズ・ステーションもSFフォーラムもまだ存在はしてるんだけど、閑古鳥かぁかぁかぁかぁ。
 パソ通最初のおつきあいの歴史フォーラムはこないだ消滅しまして、ご召喚により、最後のチャットをやったとこであります。

 で、ガンダムといえばの、しののめさんによる、
むいむい星人の寝言 を観てたら、
>ガンダムカフェDJ NIGHTの予定。
> ガンダムカフェの期間限定企画のDJ NIGHTですが、お店で貰っ
>てきた案内によると以後はこんな予定になってます。
> 11/12(金)KYOUMEN
> 11/20(土)HIROAKI special guest SOMA
> 11/26(金)DJ ATT
> 11/20は例のシャアの誕生日企画ですね。

 えっ? シャアの誕生日って、いつ決まったの?
 で、さっそくググルってみましたら、ううん、なるほど、今は11月17日ってことになってるらしいのだが、実は……
 こおゆう時、最後に出てくるのは2ちゃんねる。
 はい、倉庫にありました。
 シャア誕生日の設定の最初についての情報が。

シャアの誕生日
>8 名前: CASSBULL命!! 投稿日: 2000/10/10(火) 14:12
>むかーしむかーしのことじゃったー・・
(中略)
>だからアニメージュで第1回人気キャラコンテストがあってシャア
>が1位になるのなんて 愛しの大佐なんだから当たり前だとおもっと
>ったのじゃー。
>そして上位キャラのファイルカードが付録でついていたんじゃー。
>そしてプロフィールが・・・・
>って、前置が長かった?
>そのキャラファイルには
>宇宙世紀0059の9月27日生まれとなっています。

 で、いつ「11月17日」になったのか?
 今のところ、調べがついてません。

 そういや、『エヴァ』キャラの誕生日設定がいつできたのかについても、悩んだっけなあ。
 インパクトの日づけは画面見りゃわかるようになってたのだが……。

 ちなみに、シャアの誕生日が9月27日で、キャスバルの誕生日が11月17日とゆう妄想、あ、いや、説もあるそうです。

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尾形さんてば……

 『あの旗を撃て!』というタイトルの本が刊行された。
 著者は尾形英夫さん。オタクならびに原オタクには言わずとしれた「アニメージュ」誌初代編集長である。副題に「「アニメージュ」血風録」とあるように、これは尾形さんのアニメ回想録。
 版元のオークラ出版の名はどっかで聞いたようなと思ったら、なあんだ、尾形さんの企画で『マッドハウスに夢中!』とか出してるとこじゃないか。

 で、こんな本です。
AnimageOgata.jpg
表紙画:宮崎駿(スタジオジブリ)
装幀:谷地内田哲夫(株式会社オープンハウス)

 実は、尾形さんとは、面識もろくになく、きちんと挨拶したことは一度もない。
 今でこそ、徳間という会社における、文芸のSFなど担当とアニメ部門の交流はさかんというかほとんど一体だが、当時はというと、社内的にはさして深い関係というわけではなく、僕がおつきあいがあったのはもっぱら、「SFアドベンチャー」がらみばかり。
 おまけに、ぼくのアニメ・ジャーナリズムとのつきあいもまた、もっぱら「OUT」だったもんだから……。

 そもそも、アニメの世界とからみはじめたのは、SF仲間のイラスト系グループとのつきあいからで、そこの人脈からできたガンダム同人誌「GunSight」をプロ出版としてグレード・アップしたのが、「OUT」版元のみのり書房から刊行され、現在は銀河出版から復刻版がでている『Gundam Century』。
 企画したのは前記ファングループの創設メンバーであり、『ガンダム』では脚本家として文芸担当だった松崎健一さん。ぼくは、企画側唯一の編集仕事体験者ということで、デスク役。みのりの編集部での実務は、つまり、僕と当時の「OUT」編集長、大徳さん。松崎健一が所属していたスタジオぬえとの連絡ならびに進行担当が、現在ぬえ社員で『種』の設定考証やってる森田繁さんで、イラストとか執筆などが、ご存知美樹本晴彦や河森正治、大野木寛らの方々。
 で、泊りがけでどしんばったんやってる間にも、「アニメージュ」や「アニメック」編集部の似たような話はもれ聞いていたのであるが、もともとSF仲間だった池田憲章さんなどをのぞけば、「メージュ」とのつきあいってあまりなかったんだよね。
 っていうか、当時の「アニメージュ」と「OUT」の関係ってばきわめて微妙で、『宇宙戦艦ヤマト』ブームにのって、サブカル雑誌、「アウトサイダー」をちぢめて「OUT」として発刊したはずが実質アニメ専門誌になったのが「OUT」。一方の「アニメージュ」は、日本で最初に、はじめからアニメ専門誌として出発した雑誌。しかも、親会社の紙屋のええと3階にあたるのか、胸突き八丁の階段あがったぼろぼろのフロアにある零細会社みのり書房に対して、徳間のほうは出発点こそ、「トップ屋」(ルポライターを指す当時の差別用語です)上がりの康快さんが作った野党的会社とはいえ、出版社としてはすでに「大」の字のつく会社。営業力の違いもあり、たちまち部数を伸ばしていったのだが、そこはそれ、偉いヒトの間にはいろいろとあるわけで……。

 で、そんななかで聞いてた噂を思いおこしながら、『あの旗を撃て!』を読んでみると、

 やっぱり、ほぼぴったし聞いてたとおりの方でした、尾形さん。

 「編集長」ってのは、映像の世界でいうと「プロデューサー」であり「監督」であり「シリーズ構成」でもありうるわけで、その中で、噂に聞く尾形さんは典型的なプロデューサー・タイプ。実務とか細かな企画立案とかよりは、「よっしゃ、これでゆけ!」って感じ。
 その印象がまんま正しかったことがわかりました。
 そうか、台割りやらなんやら細かい仕事は鈴木敏夫さんがやってたのね。なあるほど。
 で、元映画青年だった鈴木敏夫さんが宮崎さんと仲良くなるのは当然で、その中から『風の谷のナウシカ』コミック版の企画が生まれ、尾形さんがゴーをだし、会社を説得して、例の鉛筆原稿(下書きはアニメにならって青鉛筆)のまんが連載がjはじまり、そして、PRのはずが、尾形さんのそれゆけどんどんと、康快さんの英断でいつのまにか劇場映画へとふくれあがりってわけか。

 で、そんなこんながあるからには、「OUT」の名前が関係者執筆のコラムにしか出てこない(「アニメック」はまったく無視だし、「New Type」は「メージュ」移籍組がいるので言及)とこまではいいんですよ。
 また、尾形さんのプロデューサー的立場からすれば、編集部寝泊り組やプラスごく一部をのぞけば、プロになりかけ、なったばかりのオタク連中の顔と名前が一致しなくてもしょうがないとjは思うのですけど……。

 89ページの写真。
「1983年3月15日、梅名くん一行が上京した折り、森康二さん(前列中央)を徳間書店にお招きした。後列左端・梅名君、1人おいて筆者、右端は鈴木敏夫くん(写真は梅名くん提供)」
AnimageOgataAisanra.jpg

 思わず、ぶっとふいてしまいました。
 文中、梅名さんはフルネーム、「梅名英生」さん。神戸大学漫研のリーダーで、尾形さんがブレーンとして頼っていたお方。ご本人がよせられてるエッセイによれば、当時は大学院に在学、さらに、修士論文提出直前に大病をわずらわれ、アニメの世界からは長く縁遠かったとのこと。
 ううむ、だからなのだろうか?
 あのお、いっしょに映ってるのって、「関西の社会人ファンの方々」ばかりじゃないというか、関東の濃おい方々のほうが多いような気がするのですけど。
 しかも、うち一名は、このときすでに「アニメージュ」で仕事してたかどうかは忘れたけど、尾形さんが編集長在職の間に連載もつことになった「アウシタン」出身のプロまんが家なんですけど(汗)。

 いやあ、ちっちゃなことにはこだわらない、いかにも伝え聞く尾形さんらしいお話ではあります。

 追記。で、僕が聞いてる伝説によれば、ガンダムの型式名「RX-78」の命名は尾形さんってことなんだけど、これってもしかして、鈴木敏夫さんの方?
 教えて偉いひと。

 も一つ追記。『あの旗を撃て!』のタイトルは、尾形さんも書かれているように、日本の映画作品から。
 1944年、つまり大戦中の、東宝製作で、精確なタイトルは『あの旗を撃て-コレヒドールの最後』、監督は阿部豊で、脚本は八木隆一郎と小国英雄、主演は大河内傳次郎、「特殊技術」担当は、はい、円谷英二です。


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2004.11.11

星新一がデビューしたころ

 で、「すっ、すばらしい ガンダム対ボッコちゃん史上最大の対決」への補足である。

 「あれ? 「ボッコちゃん」て「宇宙塵」からの転載だけど、処女作じゃなかったよな、と、チェックしてみると、かの星新一さんでさえも、完全版の書誌(ビブリオグラフィー)はまだないみたいなのね。

 そこでチェーック!

「自作の年譜」@星新一の世界
>昭和32年/1957年
>30歳
> SF同人誌「宇宙塵」に書いた作品「セキストラ」が江戸川乱歩編集の
>「宝石」11月号に転載となった。その号には仁木悦子の乱歩賞受賞後の
>第1作「粘土の犬」ものっている。つづいて「ボッコちゃん」「おーい
>でてこーい」なども「宇宙塵」から「宝石」に転載となり、同誌の常連
>執筆者となる。作家としては、まさに幸運な出発であった。

 1957年5月、同人誌「宇宙塵」創刊。発行は「科学創作クラブ」、代表は柴野拓美。UFO研究の「空飛ぶ円盤研究会」会誌「宇宙機」別冊として企画、独立。
 「研究会」会員でもあった星新一は創刊号にエッセイ「ある考え方」を寄稿。第2号(同年6月号)に中編「セキストラ」を発表、SF作家としてのデビューをはたす。
 ただし、活字になった作品には、これ以前にも1949年の「狐のためいき」(「リンデン月報」掲載)と、雑誌に掲載された「小さな十字架」がある。
 「小さな十字架」については、改めて確認した限りでは、「セキストラ」以前であることは確実だが、発表年次、掲載誌はいまだ不明であるようだ。また、「リンデン月報」の詳しい素性についは、やはり、手元の資料ではわからなかった。「リンデン」というと、計測器のメーカーの「林電工」が連想されるが、ここの設立は資料では1961年。PR雑誌であることは間違いないのだが。
 ツッコミよろしく。
 「宇宙塵」にはさらに3号(7月号)に「(落語)知慧の實」を、6・7号(10月11月号)には「火星航路」(上下)(『宇宙塵傑作選 日本SFの軌跡 1』、出版芸術社)を寄稿。
 「宇宙塵」の編集実務のほとんどは、代表の柴野拓美がおこなっていたが、最初の数号は、星新一が校正作業を手伝っていたという。
 同じ1957年暮れ、江戸川乱歩編集のミステリー専門誌「宝石」(のちの「月刊宝石」「週刊宝石」は同誌の誌名のみを継承)に「セキストラ」が転載される。江戸川乱歩への紹介者はミステリー作家の大下宇陀児。
 「ボッコちゃん」は、翌1958年、「宇宙塵」2月号に、同誌発表のものとしては3作目のSF作品として掲載される。この作品により、ショートショートという作品形態に開眼。
 ……、ごめん、手元の資料ならびにネットでは、「ボッコちゃん」掲載の「宝石」月号わかんなかった。
 そこらへんよろしく>ロートル諸君。
 1958年、「宇宙塵」に掲載された作品はほかに、「空への門」(3月、9号)、「環」(4月、10号)、「愛の鍵」(6月、13号)、「弱い光」(7月、13号)、「おーい でてこい」(8月、15号)と、「栓」(10月、16号)があり、言わずと知れた「おーい でてこい」以外にも「愛の鍵」が、のちに単行本に収録されている。
 翌1959年の同誌への寄稿は、小説にしぼれば「収穫」(1月、18号)、「タイムマシン」(3月、20号)「泉」、「遺品」(8月、24号)がある。
 1959年にはまた、最初の単行本『生命のふしぎ』が新潮社から発行されるが、これは「小国民の科学」と題するシリーズの一冊で、児童向けの科学解説書。
 1960年、書き下ろし作品が「宝石」や創刊まもない「ヒチコック・マガジン」にも掲載され、年末には、やはり創刊したばかりの「SFマガジン」にも12月号デビュー。「ヒッチコック・マガジン」の編集長は小林信彦。
 1963年2月、最初のSF短編集『人造美人』刊行。装丁は六浦三雄で挿絵はなし。この単行本は同年の直木賞候補となる。同年8月、2冊目の『ようこそ地球さん』刊行。装丁は真鍋博。
 『人造美人』が『ボッコちゃん』と改題、真鍋博のイラスト入りで刊行されたのは、1971年、新潮文庫から。
 で、ここで大疑問。はて、「ボッコちゃん」の、真鍋博によるイラストが実際に描かれたのは、この時はじめてなのでありましょうか?
 手元に古い「SFマガジン」がないので記憶だけで書くのだが、同誌掲載の『夢魔の標的』(1963)も確か真鍋博のイラストで、だあいぶ前から星/真鍋コンビは成立していはず。
 新潮文庫の『真鍋博のプラネタリウム―星新一の挿絵たち』は、アマゾンによれば入手可能なようだけど、手元になし。ここにはそこらへんのこと載っているのだろうか?
 教えて偉いヒト。

 典拠元。
星新一ひみつ倶楽部
ひみつリサーチ1001
初出誌リスト 作品編
「『宇宙塵』掲載主要記事一覧(創刊号~194号)」
「宇宙塵四十年史」編集委員会編、『塵も積もれば…宇宙塵四十年史』、出版芸術社、1997。
UchujinSF.jpg
装幀:江口まひろ
「SF書籍データベース、SF雑誌データベース」

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すっ、すばらしい ガンダム対ボッコちゃん史上最大の対決

 すっ、すばらしい。
 これだけの情報、あっという間に広まるかと思ったら、意外にそうでもないみたい。


 わたくしは、来年度の星雲賞、SFファンが選ぶ、日本SF大会で授賞がおこなわれるSF作品賞に、この「作品」を推薦します。

BokkochanGundam.jpg
No.2297 : 「諸君の愛してくれたガルマ・ザビは死んだ。何故か!?」   ★Continue
> NAME : がんもどき TIME : 2004/10/26 (Tue) 22:18
「坊やだからさ」
「坊やだからよ」
「ジンフィーズ飲むかい」
「ジンフィーズ飲むわ」


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2004.11.10

NASAが捕らえた小惑星エロスのオーパーツ

 こないだ、と学会の仲間と話してたら、超常現象の研究者でも意外に知らなかった、宇宙的オーパーツ。
 2000年5月1日に、アメリカ、ジョンズ・ホプキンズ大学が企画し、NASAが運用した宇宙探査体NEARが、小惑星エロスを撮影した画像で、かなりシャープな直方体の構造物が映っている。右上の影がそれで、幅は45m、影からすると高さはさらに上かもしれない。
 かなりでっかいモノリスである。

 以下、NASAの該当ページより紹介。

NASAnear_20000501EROSMonolith.jpg

 説明文は、

NEAR Orbit Around Asteroid 433 Eros
The View from Low Orbit
This image of Eros, taken from the NEAR Shoemaker spacecraft on May 1, 2000, is among the first to be returned from "low orbit." Between May and August, the spacecraft will orbit at altitudes near 50 kilometers (31 miles) or less. This will be the prime period of activity for some of the spacecraft's science instruments. The X-ray / gamma-ray spectrometer will build up maps of chemical abundances, while the laser rangefinder measures the shape of Eros to within meters (a few feet). At the same time the magnetometer will watch for indications of Eros' magnetic field and the near-infrared spectrometer will map rock types.

The imager will take pictures of the entire surface of Eros that capture features as small as 4 meters (13 feet) across. This particular image, taken from an orbital altitude of 53 kilometers (33 miles), shows a scene about 1.8 kilometers (1.1 miles) across. Numerous craters and boulders as small as 8 meters (26 feet) across dot the landscape. The large, rectangular boulder at the upper right is 45 meters (148 feet) across. (Image 0132577092)
http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/image/near_20000501.jpg

 面倒くさいから、ウェブ翻訳で。
 テキトーに解読してください。
▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽▽
低い軌道からの視界2000年5月1日にNEAR靴屋宇宙船から得ら?黷スエロスのこのイメージは、「低い軌道」から返される最初の一つであります。5月と8月の間に、宇宙船は、50キロメーター(31マイル)の近くの高所あるいはより少ない数量で軌道に乗るでしょう。これは宇宙船の科学道具のうちのいくつかのための活動の第1の期間になるでしょう。その、X線、レーザー距離計がエロスの形を測定している一方、/ガンマ線分光計は化学の有り余るほどの量の地図を構築するでしょう、に、メーター(数足)内に。同時に、磁力計はエロスの磁界の表示を待つでしょう。また、近い赤外線の分光計は岩タイプを写像するでしょう。想像する人は、4メーター(13フィート)ほど小さな特徴を横切って捕らえる、エロスの全表面の写真を撮るでしょう。53キロメーター(33マイル)の軌道の高度から得られた特にこのイメージは、場面を約1.8キロメーター(1.1マイル)横切って示します。多数の火口、およびドットを横切った8メーター(26フィート)ほど小さな巨石、景観。上部の右の大きく長方形の巨石は横切って45メーター(148フィート)です。(イメージ0132577092)
△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△△

 上記のNASAのサイトには、エロス表面のエンパイアステート・ビルなみの高さの構造物も紹介されてます。

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SpaceShipOne秘蔵写真

 民間としては初の宇宙飛行--高度100km以上の大気圏外飛行をなしとげた、アヴァンギャルドな航空機で知られるバート・ルータンの設計になるSpaceShipOne。
 いろいろ、言いたいことはあるのだが、とにかく、とりあえずたまってる写真を紹介しよう。
 いずれも、製作会社のスケールド・コンポジッツ社からのパブリシティー用リリース・フォトだが、現在、同社のサイトにはアップしていないものを選んだ。

SpaceshiponeWhiteKnightWindValley0.jpg
 SpaceShipOneは、第一段ロケットのかわりに、空中母艦となるホワイトナイトというジェット機を用いる。
 写真は、モハベ砂漠の近郊、実在の「風の谷」をゆくスペースシップワンと母艦ホワイトナイト。
 写真左側中央下よりあたりをよく見ると、ホワイトナイトの上側2基のジェット・エンジンの熱い後流で、風景が陽炎っているのがわかる。
 画面下、風車の森の手前を見てほしい。小さく見えるのは2階建て以上の民家。
 実は日本は風力発電の最後進国。エコな未来は、とっくの昔に始まっているのだ。

SpaceshiponeWhiteKnightMoon.jpg
 こちらは、予備飛行実験時の地上からのスナップ。
 右のホワイトナイトから切り離されたスペースシップワンが滑空飛行をおこなっている。
 そして、その上空には月。
 いつか、民間の市民によって、あの月にひとが旅することも可能になるだろう。

WhiteKnightCockPit0.jpg
 次は、スペースシップワンのコクピット、ではなくって、ホワイトナイトのそれ。
  N318SLというシリアル・ナンバーが右上に見えるのでわかる。
 スペースシップワンのシリアル・ナンバーはN328KF。
 ただし、機器類の配置はほとんど同じ。ジェットとロケットの違いと、スペースシップワンが「フェザー」という再突入用の変形(!)機構をそなえているくらい。そのため、訓練用のシミュレーターも共通のものとなっている。
 事実、ディスプレイされているのは、スペースシップワンの再突入シークエンス画面であり、おそらく、これはホワイトナイトを使った、予備的な訓練飛行のスナップであろう。
 無茶苦茶せまいのを超広角レンズで撮っているのに注目。ほとんどねそべるようにしているが、足元には地上の空港が見える。も少し直立すれば、変形後のマクロスのコクピットである。

SpaceShipOneCockpitSimulator.jpg
 これはフライトシミュレーター。空中母艦、ロケット機ともに、鼻つらは耐熱対衝撃用に小さな窓がいくつも設けられているが、このため、シミュレーターには、市販のディスプレーをそれぞれの窓にすえればよくなり、ここでもコスト削減に役立っている。

SpaceShipOneCockpitDisplayBoostMode.gif
 スペースシップワン、コクピット正面ディスプレイの、ロケット噴射による上昇時の表示画面。

SpaceShipOneCockpitDisplayEntryMode.gif
 こちらは再突入時のディスプレイ表示画面。

 再突入時の激烈な極超音速衝撃を受け止めるため、機体はこのように変形する。
SpaceshiponeFeatherConfig2.jpg
SpaceShipOneFeatherConfigDescent.jpg
 ゆるやかなデルタの主翼が中都で上方に折れ曲がり、機体本体はほとんど真上を向いた姿勢で、お尻を下に向け後ろ半分の翼だけで再突入時の極超音速衝撃波を受け止めるのである。実際の飛行では、この再突入時に、機体は激しいロールにみまわれた。

SpaceShipOneCockpitDisplayGlideMode.gif
 これは、ホワイトナイト巡航/着陸進入シークエンスならびに、スペースシップワン滑空/着陸進入シークエンス時のディスプレイ。

Photo:Scaled Composites

 

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復活の地への頌歌

 小川一水『復活の地』(ハヤカワ文庫JA)全3巻が完結した。
 傑作である。真摯な問題意識にもとづく、警世の、志の書である。

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 異世界SFの形をとっているがゆえに、その本当の創作意図が、特に若い読者、SF専業読者に伝わらないのではないかという危惧から、1・2巻の段階で、SFM筆者近況欄でプッシュ、あえてネタバレしたが、やはり、著者も同様のこと、考えていたのだろう。
 巻末の参考文献表では、あからさまといえばあまりにあからさまな文献がずらりとならんでいる。
 舞台は異星。人類が恒星間文明を構築、しかし、その超文明がうしなわれ、各個の星系が孤立して幾星霜。ようやく、恒星間交易が復活した時代の、小さな小さな個別星系内帝国のお話である。
 南に勇猛な先住民が抵抗をつづける星系内最大の王制をしく帝国。
 そこに未曾有の災害がおとずれる。超強力な地震である。
 政治体制は議会を有しこそするが、元老院を緩衝役とする王制。ところが、皇室メンバーのほとんどは地震により、死亡あるいは行方不明。軍、議会、官僚、そして、南方の反逆種族、さらには機をうかがうもろもろの星間帝国……。
 青年テクノクラートは、皇族の唯一の生き残りであ皇女との暗黙の同盟のもと、復興よ、やがて明らかとなる災害の再来とにったちむかう。
 地震災害そのもののモデルは、阪神淡路大震災。背景となる政治情勢は、関東大震災時の日本。
 いわゆるライト・ノベルの文保にのっとり、関係するものたちの、それぞれの「正義」、それぞれの「信義」が、キャラクターに具現化され、物語は展開される。
 これは、小松左京による「物体O」「日本沈没」「首都消失」に代表される、社会的国家的危機に対する「危機」を扱った緒作への直接のオマージュであり、阪神淡路大震災によって、われわれがかちえた、その「希望」という一点において、偉大なる先達をこえている秀作である。
 ハードな宇宙工学が題材であったがゆえに、ぼくは世評とは異なり、同じ小川一水の『第六大陸』は、あまりかわない。
 だが、この長編、はだがちりちりするような感動とともに読み進めることができた。
 とりわけ、政治背景に戦前日本を模したことにより、小松左京がネグッた天皇制の問題が正面から取り扱われていることは賞賛に値する。ちなみに、「物体O」では、天皇制は関東/東京絶滅とともに自然消滅し、『日本沈没』では,生き残りの皇族が亡命政権における象徴的役割をはたすとのみ、ほんの二言三言の記述があるきりである。


 もちろん……、
 もちろん……、ぼくが、1958年、まだ幼い頃に、静岡県東部をおそい、3千人以上の死者を出した狩野川台風に際し、狭い町内の傾斜路をかすめた土石流により、家屋全壊、あご近くまで泥に埋もれて死にかけたことがあったにせよ、また、阪神淡路大震災時には、直後の現地で、大阪で所要ののち、たった一日とは言え、かついでいった自転車で新大阪から長田近くまで物資配布のお手伝いをさせていただき、あの、パースペクティヴが狂った光景のさなかを走りぬけたことがあったからこそ、過剰な評価をいだいているのかもしれないのだが、だが違う。やっぱり、これは傑作である。
 なぜまた、帯に小松さんからの推薦がなかったのだろう、と考えたところで気がついた。
 過去のしがらみはいまだはれきってはいないのである。
 異世界SFという設定にまどわされずに読んでもらいたい、今、もっともアクチュアルなSFだ。
 モデルとなった人物については、巻末の参考文献に明らかだが、現実のポスト関東大震災と、この物語における「希望」の到来は、根本から異なる。
 なにしろ、現実の大正昭和において、復興のネックとなったのは、確かに大災害再来の危機であったが、当時に0おける「来るべき新たな大災害」とは、アメリカとの戦争による「空襲」の危機であり、求められたのは、それにそなえた、ただし失敗に終わった都市改造だったからである。
 後藤新平。日本植民地主義の最前衛における尖兵にして、震災復興にいどんだあまりに有能な技術官僚……。

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 オマージュの相手は小松左京ばかりではない。これは佐藤大輔につづく、あの司馬遼太郎が生涯かけてなしえなかったことへの、まったく新しい世代からの、回答の試みでもある。

 
 

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